はじめに:台所で見つけた「小さな同居人」
それは、先月か先々月のことでした。夕食の準備でキャベツを切っていたとき、中から一匹の幼虫が出てきました。周りはフンだらけ。
本来なら「害虫」として取り除いて終わりにするはずの存在でした。 しかし、それを見つけた次男が「飼いたい」と言い出したことで、我が家の小さな「命の観察」が始まりました。
命を預かるということ
次男はタッパーにキャベツと幼虫を入れ、毎日様子を見ていました。正直なところ、最初は「本当に育つのかな?」と思っていましたが、幼虫はたくましく生き、やがて動かなくなってサナギになりました。
「サナギは生きてるの?」「いつ出てくるの?」 そんな子供の純粋な疑問に答えながら、私たちはただ、その「沈黙の時間」を見守っていました。
FXのようにチャートを分析して予測することも、プログラムのようにコードを書き換えて結果を操作することもできない、命そのものの時間を。
突然の羽化、そして命の終わり
そして今日、ふとタッパーを覗くと、サナギを脱ぎ捨てて蛾として羽化した姿がありました。しかし、その時にはすでに、その命は尽きていました。
調べてみると、蛾の種類によっては成虫になると口(口吻)がなく、何も食べずにただ子孫を残すためだけに生きるものもいるそうです。
冬の寒さを乗り越え、狭いタッパーの中でようやく羽を広げたその瞬間に、彼は何を思ったのでしょうか。
お写真を見ていただければわかる通り、タッパーの右上には空になったサナギの殻が残されています。
画像検索にかけてみたところ、この子は「ウワバ」というグループの仲間(例えばタマナウワバなど)である可能性が非常に高いとのことでした。
ウワバの仲間は、成虫になると夜に花の蜜を吸いに飛ぶこともありますが、寿命は長くありません。
暖かい部屋が告げた、早すぎた春
ここで一つの疑問が浮かびました。なぜ、まだ外は冬なのに彼は羽化したのでしょうか。
本来、彼らは厳しい寒さの中でサナギのまま冬を越し、本当の春が来るのをじっと待つはずです。もし「タマナウワバ」であれば、その越冬能力は高いはずですが、私たちが用意した暖かい室内という環境が、彼に「もう春だよ、外へ出ておいで」と間違った合図を送ってしまったのかもしれません。
命を繋ぐためにプログラムされた本能が、環境の変化を敏感に察知し、季節を先取りして彼を羽化させた。
その健気さと、一歩外に出ればまだ仲間も花もないという残酷な現実を思うと、人間の物差しで「良かれと思って」保護したことが、果たして彼にとって幸せだったのか、深く考えさせられます。
最後の場所として選んだのは、一番落ち着く「緑」の上
羽化した彼は、タッパーの中を飛び回る力も残っていなかったのかもしれません。それとも、自分が生まれ育ったあのキャベツの感触を求めて、最後の一歩を踏み出したのでしょうか。
彼は、一番慣れ親しんだ緑の葉の上で、静かにその一生を終えていました。
数字やデータで管理されるFXの世界では、予期せぬ変動は「ノイズ」として処理されることもあります。
しかし、この小さなタッパーの中で起きた「季節外れの羽化」というノイズは、私たち家族にとって、何物にも代えがたい「命のリアリティ」そのものでした。
研究対象にしてしまったことへの葛藤
子孫を残すことも、空を飛ぶことも叶わず、私たちの観察対象として一生を終えさせてしまったこと。
そこには、言葉にできない申し訳なさが残りました。 「ごめんね」という気持ちが込み上げると同時に、こうも思いました。
もしあのままキャベツと一緒に捨てられていたら、誰にも気づかれずに終わっていたはずの命です。
それが我が家に来たことで、一人の少年の心を動かし、命の変化を間近で見せ、そしてこうしてブログの記事として誰かに届く言葉になった。
それは、彼が残した「目に見えない子孫」のようなものかもしれません。
次男が学んだ、言葉のないメッセージ
次男は、動かなくなった彼をじっと見つめていました。「ごめんね」という言葉の裏側には、彼を大切に想い、毎日キャベツを替えて見守り続けた日々の重みが詰まっています。
生物学的な使命は果たせなかったかもしれない。けれど、この小さな命が放った最期の輝きは、次男の心に「優しさ」という消えない足跡を残してくれました。
次男は「冷凍庫に入れて凍らせて、標本にしてあげたい」と話していました。
形を変えて、彼はこれからも我が家の一員として記憶され続けることでしょう。
結び:シミュレーションできない世界を生きる
私は普段、FX法人の代表として「期待値」や「リスク」を計算し、シミュレーターを作って未来を予測しようとしています。しかし、この小さな蛾が見せてくれたのは、どんなに計算しても割り切れない、儚くも力強い「生」のリアリティでした。
次男にとって、この冬の経験は教科書では学べない大切な授業になったはずです。
命の終わりを見届けることも、学びの一部。
私たちに大切なことを教えてくれた「小さな同居人」に、心から感謝して、この記録を閉じたいと思います。
